honkyouomotometeのブログ

一度きりの人生、あともどりもできない。
今日ベストの歩みができたらいいなあ。
思ったことを書いていきたい。

お母様の出産の証し

その当時、1960年度から始めて、1972年度、そして本格的に1973年度にアメリカで摂理なさる間はあまりにも大変でした。共産党は直接お父様が行かれる所に付きまといながら、さまざまな妨害をし、到底言うこともできないような脅迫をするなど、危険な問題が数多くありました。あまりに神経を使い、またずっと車に乗って移動し続けたので、およそ五年の間は何度も流産しました。

1975年に権進が生まれ、その後にさらに五人の子供が生まれましたが、実はとても大変でした。
病院でも、”今生んだ子供たちのためにも母親が健康でなければならないはずなのに、どうしてこのように自分のことを考えないのですか?”と言われました。
しかし、私の立場からは”もう(子供を生むのを)やめます”とは言えません。天は私が何人子供を生むことを望まれるのか尋ねようと祈祷しました。それで、私はどうすればよろしいでしょうかと天に尋ねるために、よく霊通する教会の勧士のかたに特別祈祷を頼んだりしました。
それゆえ、その勧士のかたが約三日間特別に山へ行き祈祷をしてきて、”お母様、十三人だけ生んでください”と言うのです。その頃は榮進が生まれた時で、自然分娩する途中で子供の頭があまりに大きくなっていたために生死の境をさまよいました。
その頃、お父様はドイツへ行っておられたのですが、三十分内に決断しなければ母子共に危険ということで、仕方なくその時に帝王切開手術をして榮進が生まれました。
一度、帝王切開手術をすると、自然分娩は難しくなるのです。メスを入れた部位の伸縮性がなくなるので不可能なのです。ですから特別祈祷をせざるをえませんでした。するしかなかったのです。それなのに天は私が十三人の子供を生むのを待望しているというのです。
その後、息子としては一番の末っ子の亨進が生まれ、その次に娘を二人生みましたが、それも本当に不思議なことです。
1960年代には尹清浄心女史(仏教徒の霊通者)が非常に多く協助してくれ、熱心に教会にも通って祈祷もしていました。その頃のこと、私がある日そのかたに子供を何人生めばよいのか尋ねたところ、その数は答えてくれずに、”最後に娘が二人できるだろう”と言うのです。実際、どうせ生むのなら息子だけ生めばよいだろうに、”最後に娘が二人できる”という答えでした。ですから、最後に娘が二人生まれて、そのかたが思い出されるわけです。

息子としては亨進が七番目になり、最後に娘を二人生んだので娘も七人です。ですから、息子も娘も同じく七人ずつ全部で十四人生んだわけです。
(お母様の証しより  2011年3月4日 ラスベガス、天和宮)



お母様、亨進様を生んでくださってありがとうございます。

霊通者の言うことに耳を傾けすぎ、真の母の位置を離れてしまわれたことは悲しいことです。



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